ヒトゲノム計画は1984年に提案され、解読作業は1991年から始められ、2003年に解読完了が宣言された。この解読プロジェクトの成果として、次の事項が挙げられる。
 ①世界各国が資金を投資し、多くの研究者が参加・協力したこと。②ゲノム解析の関連機器および手法が進展したこと。③基本物質であるタンパク質をコードする情報は、全ゲノムのわずか2%であること。

(1) セントラルドグマとは

 生命の根源であるセントラルドグマ(central dogma)は、DNA→発現と転写→mRNA→翻訳→タンパク質の順に伝達されるシステムである。この基本的な仕組みは細菌からヒトまで共通で、この仕組みにより複雑で様々な生命の活動が営まれている。

(2) セントラルドグマの仕組み

 ゲノムを構成するDNAの遺伝情報は、核酸塩基(以下、塩基と略称)である4種の分子(以下、文字と略称し、ここでは4文字をA、B、X、Yとする)で表現される、相補的塩基対(A-B、X-Y)が連なる「らせん状の2本鎖」に保存されている。
 デジタル社会の情報は、2つの信号「0」(ゼロではなくて、一つの信号である)と「1」で表現される配列で保存あるいは伝達される。生命のDNA情報も、相補的な塩基対(「A-B」と「X-Y」)の配列により保存あるいは伝達されている。例えば、「A-B」→「0」と「X-Y」→「1」と仮定するとわかりやすい。(注:正確には、塩基対、A-BとB-A、X-YとY-Xはそれぞれ異なり、1本の鎖から情報が読み取られるので、A,B,X,Yの4文字によって表記されることとなる。)
 生命体の基本分子である20種類のアミノ酸を、核酸塩基(上記4文字A、B、X、Y)中の3文字で表現している。RNAの遺伝情報は、1本鎖に配置された塩基4文字(1文字のみ、DNA文字と異なり、ここではY→Zとする)で表現され、その塩基はDNAの4文字と相補関係(A↔B、X↔Z)にある。この仕組みも、細菌からヒトまでに共通する基本原理である。
 タンパク質(酵素)は、DNAにコードされたアミノ酸の1本鎖が3次元的な構造(ユニット)を形成し、単一ユニット(大小様々なサイズと多様な形状)またはそれらの複数ユニットの多数がそれぞれ連携・共同して、様々な生命活動(代謝:エネルギーの生産、物質の合成と分解、子孫の複製)を行っている。

(3) セントラルドグマはデジタル社会に似ている

 生命の根源であるセントラルドグマは、何十億年も前に、自然がつくり上げた生命共通の仕組みである。長い年数を掛けて複雑な仕組みへと変化・進化し、現在のヒトが生きている。
 ヒトがつくったデジタル社会は、1840年前後に開発されたモールス信号で「トン」(短い)と「ツー」(長い)の2文字で表現される通信手段で始まった。その後、1940年代に、「0」と「1」の文字を使って、この配列を読み込み、演算・制御して得た結果を保存と表示するコンプーター(CPU)という仕組みができた。CPUのハードとソフトの技術進展とともに、CPU同士をつなぐネットワークが世界中に広がり、現在の情報・通信のインフラが構築された。並行して、AIという人工知能も開発・実用化され、現在では、ヒトに代わって作業をする様々なロボットが活躍するようになった。しかし、ヒトのつくったデジタル社会の歴史は100年にも満たない。

(4) ヒトゲノムの98%は何をしているのか

 ヒトゲノム解読の結果、全ゲノムの内、98%は実在する基本分子であるタンパク質をコードしていない。このゲノムは、上記セントラルドグマを制御しているのである。一つの細胞である受精卵が母体内で分裂・分化して器官・組織を形成し、誕生・成長・成体・老体となって死を迎えるまでの様々な生命活動を制御している。
 一つの受精卵のゲノムは分裂・分化した各器官・組織の全ての細胞へ受け継がれ、それぞれの細胞が役割を分担して活動し、互いに協調して一つの生体を維持している。
 98%のゲノム中の含まれるDNA(A-BとX-Y)配列ユニットとその機能が少しずつ明らかとなってきた。しかし、全ゲノムの内の解明された箇所は、ほんの一部に過ぎない。ヒトのDNAは30億の塩基対から構成されているので、DNA配列ユニットは膨大な数となるからである。

(5) ヒトゲノムの解明は何をもたらしたのか

 各国が参加したヒトゲノム研究は、その分析機器や解析方法を飛躍させ、ヒトだけでなく、ウイルス・細菌・植物・動物のゲノム解析技術も進展させ、細菌学、農業(植物・畜産)、医学・医薬、産業、環境についての共通の理解が進み、分野を超えた総合的な科学・技術発展の好機となった。
 これまで、純粋培養によって菌株を単離できる株についてのみ、詳しく研究されていた。しかし、純粋培養が困難生物についても、生物体内外や自然環境に存在する生物叢の解析も、それぞれに存在するDNA断片の解析により、可能となった。生態系は過去に考えられていたよりはるかに複雑であって、それぞれの環境に適合し、個々の生命は争い、他の命を奪い、ある生命同士は助け合って共存している。

(6) 我々は「命の仕組み」から何を学ぶべきか

 ヒトゲノムの基本的配列とセントラルドグマの基本的仕組みは共通しているので、受精卵か始まって死を迎えるまでの過程は同じである。しかし、ヒトゲノムは個々に異なっていて、同一なものは存在しない。顔の形や皮膚の色は異なり、考え方や行動も異なっている。
 セントラルドグマは一方向の流れであるが、生命が一生を終えるまでには、その根源であるゲノムに装飾が加えられて発現する文字配列ユニットが異なり、生体の発生・分化、生体環境の維持、反応と行動を制御している。さらに、セントラルドグマの情報内容の流れは固定されたものではなく、細胞内代謝の状況、他器官細胞からのシグナル、生体の置かれた環境の状況を汲み取って、それぞれの細胞は適切なそれぞれのゲノム情報を発現しているのである。この仕組みに不具合があると病気の原因となり、場合によっては生体の死につながる。
 現在のデジタル技術で、このようなゲノムとセントラルドグマの仕組みの構築が可能であろうか。これからのデジタル技術は、生命のゲノムとドグマから学ばなければならない。
 人類は、今日、様々な困難と課題を抱えている。ヒトの子孫に繋がる維持可能な未来社会の構築は可能であろうか。生命の誕生と進化の過程で獲得した①生態系の仕組み、②個々の生命の仕組みは、何十億年の時を経て、自然がつくり上げてきた合理的システムである。このシステムの解明は、今後、さらに発展するであろう。我々、人類は、真の命の仕組みを理解し、その仕組みを取り入れた未来社会を構築しなければならい。